アリーナに立つ人

先日、このようなnoteを読んで、とても共感したのでシェアします。

創作に携わる、すべての人にこれくらいのメンタリティでいてほしい

遠山怜さんのこのnoteは、私がこれまでにブログやnoteでシェアしてきた、私の尊敬する人達の知恵と重なることが多く、またポッドキャスト「はみだし系ライフの歩き方」では常に「俺最高」のマインドセットを持とう、と言っていること、そしてさらに前回のポッドキャスト18回では「発信しないROM専日本人」について話したので、あまりのタイミングのよさに「そう、そうだよ!」と激しく頷いてしまいました。

ブレネー・ブラウンの様々な教えはこのブログでもなんども紹介していますが(「ヴァルネラビリティとは弱さ?」 「恥について」)、彼女の2冊目の本、Daring Greatly(邦訳:「本当の勇気は、『弱さ』を認めること」)に出てくる、セオドア・ルーズベルトのスピーチにでてくる「アリーナに立つ人(The man in the arena)」をご存じですか。

以下はTechCrunchの記事を参考にして、少し訳に手を入れました。

重要なのは批評家ではない。ものごとを成し遂げるのに人がどこでつまずいたか、どうすればもっとうまくできたか、そういう粗探しはどうでもよい。名誉はすべて、実際にアリーナに立つ人のものだ。その顔は汗と埃、血にまみれている。勇敢に戦い、失敗し、何度も何度もあと一歩で届かないことの繰り返しだ。そんな人の手に名誉はある。なぜなら失敗と弱点のないところに努力はないからだ。常に完璧を目指して現場で戦う人、偉大な熱狂を知る人、偉大な献身を知る人、価値ある志のためなら自分の身を粉にして厭わない人…結局最後に勝利の高みを極めるのは彼らなのだ。最悪、失敗に終わったとしても、少なくとも全力で挑戦しながらの敗北である。彼らの魂が眠る場所は、勝利も敗北も知らない冷たく臆病な魂と決して同じにはならない。

「他人のことにとやかく言う」人が多い日本では、行動を起こす、自分の意見を言う、何かを創作して発表することに、とても勇気が要りますし、それは同時にリスクを伴うことでもあります。

先日ポッドキャスト18回で紹介したNewsweekの記事で日本人は「ROM専」の人が海外諸国に比べて多いということが指摘されていましたが、「プロでもないのに」「何様のつもり?」などというグレムリンの声、(往々にしてこれらの声は実際に誰かから発せられたものより、自分の頭の中で反芻していることも多いのですが)、また炎上を恐れるあまり発言しない人も多いのでは、と感じました。

ルーズベルトのスピーチによると、重要なのは、そのような「何様のつもり?」と批評してくる人達ではなく、実際に顔を泥や埃や血だらけにしても、実際にアリーナに立っている人・・・・・・・・・・・・・・です。

ブレネー・ブラウンは、この「アリーナ(競技場)」の例をもとにして、「批評」してくる人達はcheap seatsに座っている人達、実際に競技場に立つ勇気のない人達で、勇気を振り絞って実際にアリーナに立っている人に比べたら、気にする価値もない人達だと言っています。リスクをおかす勇気がなく、競技場のシート上から批判だけをしてくる人達には、実際にアリーナに出ていく勇気のある人に文句を付ける権利はないのです。

だから私は常にアリーナに立つ人を心から応援します。ここでいう「アリーナ」とは、スポーツに関連したことだけではありません。

志望校を受験すること。

オーディションに挑むこと。

ブログを書いて発表すること。

SNSに投稿すること。

自分自身の意見を発表すること。

人前でパフォーマンスすること。

誰かに告白/プロポーズすること

辞表を出すこと。

新しい仕事に応募すること。

アリーナに出ていくと、とっても脆く感じます。誰に何と言われるかわからないし、笑われるかもしれない。このような感情を、ヴァルネラビリティと言います。日本語に訳すのが難しい言葉ですが、「脆く感じること」と言えるでしょうか。

ヴァルネラビリティに関しては過去に詳しく書いているので参考にしていただきたいのですが、ヴァルネラビリティの定義は簡単にいうと、「不確実性、リスク、生身の自分をさらすこと」。

どうなるか先が見えない不確実性、笑われたり非難されたりするかもしれないリスク、そして生身の自分をさらすこと。

ヴァルネラビリティを感じる行動をそれでもあえて行うこと=アリーナに出て行くことなのです。

ヴァルネラビリティは、一般に「他人の中に最初に探すものの、自分の中では最後まで誰にも見つけて欲しくないもの」と言われます。

他人の弱さを見つけても何とも思わないし、逆にエンパシーを感じたり、勇気のある人と思うことはあっても、自分の中にあるヴァルネラビリティは絶対に誰にも見つけて欲しくない、というのがヴァルネラビリティのパラドックスです。

アリーナに出ていく人達は、そんなヴァルネラビリティにもかかわらず、砂と埃にまみれた広場に足を踏み出します。

覚えておいてください。外野から野次を飛ばしてくる批評家に耳を傾けてはいけません。批評家は、アリーナにでる勇気も無いちっぽけな人達です。私は、「俺最高」のメンタリティで、アリーナに出ていく人を、ずっと応援しつづけます。

人と比較してしまうとき。

(初出:note 2016年3月3日)

最近、まわりで「人と自分を比べてしまって落ち込んだ。。。」という話を何度か目にしました。就活とか、子育てとか、仕事/夢とか、がんばって成功している人をみると「ああ、なんで私は、、、」って思う人、沢山いるみたいですね。

私も今でも時々そういう負のスパイラルに陥ることがありますが、それでもだいぶ以前に比べたら減ったかな。

ブレネー・ブラウンの言葉で、いつも思い出しては自分に言い聞かせる言葉があります。

“Stay in your own lane. Comparison kills creativity & joy. “

彼女は水泳を日常的にやっている人なのですが、泳いでいる時に隣のレーンの人を気にしだすと、つい速く泳ごうとしてしまったりすると。

自分と他人を比較して、楽しい気分になったことがありますか?他人と自分を比較すると、創造性や喜びまで台無しにしてしまうのですね。

自分のレーンに集中して、自分のレーンで起こっていることに感謝すること。使い古された言葉だけど、自分は自分、他人は他人。

SNSのおかげで友達の成功やリア充の様子などが嫌でも目に入るかも知れませんが、1)SNS上の投稿は100%真実とは限らないですし、(むしろ逆の事が多い)2)私達はこのような友達が努力したり、失敗したり、落ち込んだり悩んだりしている舞台裏を見ていませんよね。私達が見ているのはハイライトの部分だけだということを忘れないで下さい。

あなたは今、あなたのレーンで何をやっていますか?もしかしたら、レーンで立ち止まって、周りを見ることに忙しくて前に一歩も進めていない人もいるかもしれませんね。

まずはその手を伸ばし、水をひとかきして、キックスタートしてみて下さい。あなたのレーンで一番の泳ぎをすることの方が、周りを見ることよりずっと大切だと思いますよ。

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自分自身でいることが、荒野に立ち向かうこと。Braving the Wilderness [1000冊紹介する-010]

ブレネー・ブラウンの最新刊、彼女の4冊目の本、Braving the Wildernessが今月発売され、さっそく購入して読みました。今回の本はそこまで厚くないので、結構さらっと読めます。

Braving the Wildernessとは、どういう意味でしょうか。Wildernessとは荒野や野生という意味ですが、Braveを動詞として使ってあるので「荒野に立ち向かう」などと言った意味になります。

一体どういう内容なのか、ほとんど予習をせずに購入し読み始めたのですが、とりあえずこれまでのおさらいをすると、ブレネーのこれまでの本のテーマは、以下のようになっています。カッコ内は邦題です。

The Gifts of Imperfection (「ネガティブな感情」の魔法)- Be You. 自分自身であれ。

Daring Greatly本当の勇気は「弱さ」を認めること)- Be all in. 全力でやろう。

Rising Strong (立て直す力)- Fall. Get up. Try Again. 倒れたら起き上がってまた挑戦しよう。

というメッセージでした。

それでは今回の4冊目の本は、どんな本なんでしょうか?

ひとことで言うと、Belongingに関する本です。

Belong、とは、何かに属すること。何かの一部になることですよね。クラブの会員になったり、会社の一員になったり。

著者のブレネーは、「何かの一部になっていると感じることは人間にとって不可欠なもの」であると過去の著書にも書いています。学校や部活で仲間にいれてもらえなかったりして辛い思いをした人も少なくないのではと思います。

何かに属しているという感覚は欠くことのできないもの、と信じていたブレネーは、マヤ・アンジェロウのインタビューを見て、ショックを受けます。

マヤ・アンジェロウは有名なアメリカの活動家、詩人、作家、女優ですが、1973年のTVインタビューでこんなことを言っていたそうです。

You are only free when you realize you belong no place – you belong every place – no place at all. The price is high. The reward is great.

自分がどこにも属さないと分かって初めて人は自由になるものです。—全ての場所に属して—どこにも属さない。その代償は高いわ。でも大きな報いがある。

これを初めて聞いた時、ブレネーは「それは違う」「どこにも属さない世界なんて」「彼女は属することのパワーを知らない」と思ったそう。そしてこのあと20年近く、この言葉が引用される度に怒りを覚えるようになったのだとか。

怒りの理由は二つ、一つは、ブレネーが尊敬するマヤ・アンジェロウが自分と正反対の意見を持っていることが許せなかったこと、そして、ブレネー自身にとって、「どこにも属さない」ことが辛い経験であったことです。

子供時代何度も引っ越しをしたため、ただでさえどこか一つの学校、クラブ、コミュニティに属することが難しかったというブレネーですが、高校生の時にベアカデッツ(話を簡単にするために、チアリーディングのようなものと考えて下さい)にどうしても入りたかった彼女の辛い体験談が書かれています。両親の仲が悪化している時で、キラキラした衣装に身を包んで、沢山の友達とダンスをすることが、一種の救いのように感じていたブレネーは、これまで何かをこんなに求めたことはないというくらいベアカデッツに入りたかった、と書いています。ベアカデッツの女の子達はなんでも一緒にやり、行動するのでベアカデッツは、まさに「所属感を擬人化したようなものだった」と。

ダンスは得意だったので、転校したばかりの学校で、一人で(まだ一緒に行くほど親しい友達が居なかったため)オーディションに参加したブレネーは、学校について唖然とします。

オーディションに参加した子達は全てメイクをばっちりして、派手な衣装に身を包んでいました。ブレネーと言えば、すっぴんで、黒いレオタードにグレーの短パンをはいていたそう。オーディションには思いっ切りドレスアップして挑むものだと、誰も教えてくれなかったのです。

それでも何とか気を取り直してオーディションを終え、夕方、結果発表のため、祖父母の家に行く途中で家族全員が乗った車で学校に行ったブレネー。

ドキドキしながら結果表を見ると、、、、彼女の番号は載っていませんでした。合格して喜びの声をあげる友人達をあとに、絶望して車に戻りました。両親は、彼女には全く一言もかけてくれなかったそうです。沈黙がナイフのように心に刺さったというブレネー。彼女の両親はどちらも若い頃は人気者で、父親はフットボールのキャプテン、母親もチアリーダーだったとか。両親は自分のことを恥じている、と感じたブレネーは、自分はどこにも属さない、そして、ついに、自分の家庭にも居場所がない、と感じたのだそうです。

今振り返って見ると、ブレネーはこれはもしかすると自分で創り出したストーリーだったかもしれない、と書いていますが、もしこのとき、彼女の両親が、オーディションに受からなかったことを慰めてくれて、挑戦しただけでも偉いと言ってくれたら、または(本当はこれが彼女が希望していたことですが)彼女を合格させなかったチームはひどい、あなたは合格する資質がある、と言ってくれていたら—この話は彼女ののちの人生の軌跡を定めるような話になってはいなかっただろう、と書いています。でも、実際にはそうなってしまった。

他人事なのに、読んでいて胸が痛くなる話です。

この話を本に書くことは思った以上に辛かったというブレネー。当時の練習曲をiTunesで聞いて思わず涙してしまったそうですが、それは、チームに入れなかった悔しさというよりも、当時、何が起こっていたのか分からなかった若い自分を慰めてくれる人が居なかったことへの涙だと言います。彼女の両親は当時は娘の痛み、そしてヴァルネラビリティに対応するためのツールもスキルも持ち合わせていませんでした。両親はその後離婚してしまいましたが、幸い、家族で勇気、ヴァルネラビリティ、そして真に何かに属するとはどういうことかを学ぶことができたので、この事件は彼女たちの未来に悪影響を及ぼすことはなかったと言います。

家族の中に居場所がないと感じることは最も危険な痛みで、これは3つの結果につながるとのこと:

1.ずっと傷つきつづけ、その心の痛みを麻痺させるか、または他人にその痛みを負わせてしまう

2.痛みを否定し、否定することで周りの人や子供達に引き継いでしまう

3.痛みを自分のものとして認める勇気を見つけ、自分や他人に対する思いやりを育て、世間で起こっている痛みをユニークな目でみつけることができる

2013年にブレネーはオプラ・ウィンフリーのSuper Soul Sundayという番組に出演することになります。そして同じスタジオに、長年尊敬してきたマヤ・アンジェロウが居る、会ってみたいか、とオプラに聞かれるのです。

この出会いのシーンはとても感動的なので、ネタバレしないでおきますので、本を読んでみるまでのお楽しみ。

そしてさらにそれから数ヶ月後、講演活動をしていく中で様々な出来事があり、やはり「自分はどこにも属していない、居場所がないのだ」とがっかりするブレネーは、ようやくアンジェロウの言葉の本当に意味に気が付くのです。

それでは真に属する(true belonging)とはどういうことでしょうか?

英語でfit inという表現がありますが、これは日本語でいう「迎合」に近いと思います。思春期にブレネーのような経験をした人は沢山いると思うのですが(私も含め)、どこか、何かに属したいがために自分を曲げたり取り繕ったりして迎合してしまう人も多いでしょう。でも、ブレネーは迎合することは属することの全く正反対だと言います。

自分に属する、ということは、誰がなんと言おうと自分の考えに忠実であること。それができてこそ、本当に自由になれるし、どこにも属さない。まるで一種の逆説のようで、最初読んだ時は私も「??」という感じでしたが、何度も読み返してみると、確かにその通りだと思いました。

自分の意見に忠実であれば、世間から非難されたり、後ろ指をさされることもあるかも知れません。ブレネーの夫のスティーブは小児科医で、抗生物質を処方しないことで親から非難を受けたりすることもあるそうですが、彼自身は「それはこの子供に必要ないものなので、誰に非難されても自分の意見を突き通す」というたとえ話をしています。

詩や文学、音楽の世界で、野生というものは広く恐ろしく危険な環境としてよく使われるメタファーです。ブレネーはこの野生/荒野/大自然というメタファーは、自分の考えに忠実であることと同じであると言います。それは孤独で、感情的で、スピリチュアルで、広大なものだからです。完全に自分に属しているということは荒野に一人で立ち向かうことと同じなのです。恐ろしく、危険な場所で、結果をコントロールできない環境ですが、この野生の場所こそが、もっとも勇敢で、神聖な場所と言えるでしょう。

真に属するとは自分を変えることではなく、自分自身でいること。 

この本では、それでは勇敢に荒野に向かっていくために、何か必要なのかを一つづつ説明していきます。2016年の大統領選以来、波乱を極めるアメリカと世界の社会の中をいかにして進んでいくか。3章以降でその方法が詳しく説明されています。

私自身は、これまで彼女の本を読んできた経験から、自分自身をさらけだすこと(ヴァルネラブルである)こと、勇気を出して挑戦することには少しは慣れてきたと思っていましたが、この本では、自分1人に属するには、他人とも繋がらなければいけない、と説かれていて、これにはもう少し練習が必要なようです。

アメリカの大統領選以来、私達は自分と似た意見の人達とばかり固まるようになってしまいました。研究によると、そのように自分達を分けてしまうと寂しさが増えてしまう傾向にあるそうです。また、自分の味方でないならそれはすなわち敵である、というような偽の二極論を展開してしまいがちです。

ブレネーは、そのような二極論を止め、自分と意見の違う人の話をしっかり聞き、同意できない場合でも礼儀正しく接することの大切さを説いています。

この本の後半で、特に感動的なのが、私達は実は他人と密接に繋がっているのだ、そしてその繋がりを強めることによって、荒野に立ち向かうことができるのだと説かれている部分です。

私自身も、1人で公共の場にいる際、ついスマホだけをのぞいてしまい、タクシーの運転手さんと話をしなかったりすることがあります。昨今では、マンションのご近所同士でも殆ど話をしないことなどが普通になってしまっていますよね。

ブレネーは「人は近づくと嫌いになりにくいもの。もっと人に近づこう。」と言っています。どの政党を支持するかによって「共和党支持者はバカばっかり」などと言ってしまうこともありますが、1人1人をしっかり見ていくと、言うまでもないことですがみんなが悪人やバカな訳はありません。1人1人に近づき,その人を理解することが大切です。また、知らない人と手を繋ごう。という章では、スポーツや教会などでみんなが一体になることのパワーを説明し、ハリー・ポッターの映画を見て感動した人達が劇場で示したジェスチャーや、チャレンジャー爆発事故の際、ハイウェイで車を停めた人達など、集合体として、感動や哀しみを分かち合った時の様子がかかれています。

「自分に属すること」が荒野に立ち向かっていくことというのは、最初はなかなか理解しがたいコンセプトかも知れませんが、非常に大切なことだと思いました。

日本語訳はおそらく来年あたりに出版されるかと思いますが、それまで、この本について語ってみたいと言う方は、ぜひFacebookのグループへもどうぞ。

ブレネー・ブラウンのコースのビデオが無料配信

去年、ブレネーの開催するLiving Brave Semesterというオンラインコースを取ったことは、このブログにも書きました

次のCourageWorks(ブレネー・ブラウン主催のオンラインコース)のコースは、4月からはじまるDaring Greatlyで、人生において勇敢に立ち向かっていくとは一体どういうことなのかを学んでいきます。

CourageWorksのサイトにて、一部のレッスンビデオが無料で公開されていますので、簡単に説明しますね。

この一連のビデオで、ブレネーは「ヴァルネラビリティに関する迷信」を説明しています。

Lesson Video One: Vulnerability = Courage

ブレネーの著書においてもっとも重要なキーワードが「ヴァルネラビリティ」です。日本語では「脆弱性」や「もろさ」、または「弱さ」と訳されますが、「ヴァルネラビリティとは『弱さ』?」のブログに書いたように、このビデオでも、ブレネーはヴァルネラビリティは弱さではない、逆に、「結果を全くコントロールできないにも関わらず立ち向かい、姿を表し、自分を見せる勇気」であると説いています。

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恥(Shame)について

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人生には良いことも悪いことも波があると思いますが、今週は私にとってまたもやストレスフルな週でした。「スランプの底にいるときにどうするか」の時の状況再発。

辛くて苦しい状況でしたが、がんばってその状況をしっかり受け止め、助けを求められるところに助けを求める。人にあたらずに、できるだけみんなに穏やかで親切に接する、を念頭において、なんとか乗り越えました。

辛い時の良い点は、本当の友人が誰であるかがはっきりすることです。今回も、本当に沢山の友人が手を差し伸べてくれたり、メッセージをくれたりして、なんども励まされました。

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ブレネー・ブラウン2016年秋の新コース

夏休みも終わり、北米では9月が新学期なので、日本の4月のような慌ただしさです。新学期ということで、夏休みの間はリラックスしていた気持ちを引き締めて、色々と新しいことに挑戦する人も多いようですね。

ブレネー・ブラウンのオンラインコースのサイト、Courage Worksでは、今年の初めからLiving Brave Semester というコースを取っていました。ヴァルネラビリティとは何か、勇気を持って生きるにはどうすれば良いのか、エンパシーとシンパシーの違い、自分にとってのアリーナは何か、などなど、沢山のことを学びました。このコースは来年もまた開講されるようですので取っていない方には強くオススメします。

そして、この秋から、いくつか新しいコースが提供されるのでご紹介しますね。

The Wisdom of Story

最初にご紹介するコースはThe Wisdom of Story、ストーリーの教え、とでも訳しましょうか。ブレネーの最新書、Rising Strong(しつこいようですがまだ邦訳が出ていないようなのでぜひ翻訳したいです)に、「ストーリー」についての話がでてきます。

ブレネーがPixarに行った時のエピソードで、全てのストーリー、お話には「弧」があり、日本語でいう起承転結に近いですが、Story Arcというものについてブレネーは学びます。もとはジョセフ・キャンベルが説いたヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)という、数々の神話に見られる一連のパターンが有名ですが、ここでは簡略化された3つの幕が紹介されています。

1幕 世界観とルールが説明され、事件が起こる

2幕 主人公はヴァルネラビリティを体験せずに問題を解決しようとする

3幕 鎧が外れ、学びが訪れる

Pixar で有名なトイ・ストーリーやバグズ・ライフも上記のような弧(ストーリー・アーク)を描いていますよね。

このWisdom of Storyのコースでは、作家でブロガーのGlennon Doyle Melton と共に、自分自身のストーリーを把握することがいかに大切かについて教えています。Glennonは拒食症と中毒を乗り越えて今では作家として成功している人で、最新刊の「Love Warrior」がヒットしています。

「人生とは辛い(Brutal)ものだけど、同時に美しい(Beautiful)」という学びから、”Brutiful”という造語を作ったGlennonが、私達の人生にもストーリーがあり、それをいかにして自分のものだと認め、ストーリーの辛い部分に来たときにいかに逃げずに、しっかり取り組めるのかについて教えてくれます。

私も早速登録して、ブレネーとグレノンのレッスンビデオを観ていますが、二人の語りに「うん、うん」と頷き、笑い、涙し、「うわ、ここ深い。。」といちいち反応しながら観てしまいます。まだ最初のレッスンビデオを観ただけですが、かなり良い手応えです。

「最初に言っておくけど、このコースを取ったからって、人生の辛いことが無くなるわけじゃないのよ」とブレネー。

「でも、辛くなった時に逃げ出さずに、『ああ、今ストーリーのあの部分なんだ』ってわかるようになれば、辛いことでも少しはこなせるようになると思うの」

コースは9月12日にオープンされましたが、しばらくは自由に登録して自分のペースで進められるのでおすすめです。

4回のレッスンで、料金は$60ですが、20%の割引コードもあります。

登録はこちらからどうぞ

不完全な子育てコース

The Gifts of Imperfect Parenting コースは、ブレネーの最初の著書、The Gifts of Imperfection(ネガティブな感情の魔法)のタイトルをもじった、すべての親に送るコースです。子供が4歳でも14歳でも44歳でも、親の悩みは尽きないもの。家族として、コミュニティとして、勇気ある子供を育て、ヴァルネラビリティは弱さではないと教え、「自分は完璧じゃないし怖いこともあるけれど、私は愛される価値がある人間だ」と自信を持って言える子供達が世界の大部分を占めるようになったら、いったいどんな変化が起きるでしょうか。

このコースのユニークなところは、4歳以上の子供と一緒にできるアートのアクティビティが組み込まれているところで、水彩を初めとした様々なアートプロジェクトが提案されるようです。

コースは10月11日から開始で、4回コースの$60です。私も登録する予定です。

登録はこちらからどうぞ

勇敢なリーダーシップ

こちらも10月から始まるコースですが、ブレネーのこれまでのコースとは別の新しいサイトBrave Leaders上で提供されます。Daring Leadershipというコースで、学校や仕事でリーダーシップを取る人向けに、いかに信頼やレジリエンスを培っていくか、勇気あるチームを育てて行くにはどうすればいいかなどを学べるようです。こちらも私も登録する予定です。

まだサイト自体新しいので、10月15日に正式にサイトとローンチするようです。

ブレネーの本やコースに興味のある方は是非Facebookでやっている非公開グループにどうぞ。自己紹介をして下さいね。

Living Brave

IMG_7375 ブレネー・ブラウンのオンラインコース、Living Brave Semesterを今日終了しました。 1月からこの5ヶ月間、世界中の何千人もの人達と一緒に「心からの生き方」とはどんなものか、どうすれば心から生きることができるのか、学んできました。 毎週月曜日に新しいレッスンがオープンになり、それぞれのペースでワークブックを進めていき、週に一度はブレネーからの生のビデオメッセージや数週間に一度はライブQ&Aなどがあり、本当に楽しい5ヶ月間でした。コースはブレネーの二冊の本、Daring Greatly (本当の勇気は「弱さ」を認めること)とRising Strong (翻訳本不明)からの内容をもとにしています。 今まで申し込んだどのコースよりも素晴らしいコースでした。 学んだことは多すぎて全てここには書けませんが、心に残ったことを少し書き出してみたいと思います。

1)コミュニティとキーワード

毎週新しいレッスンが開かれ、ブレネーによるビデオ講習、そしてライブQ&A、また他の生徒さんと交流できる掲示板などがあったため、コミュニティの一員であると深く実感することができました。また、私にとってもう一つのコミュニティは日本人同士で作っているFacebookのグループで、ここでもお互いの悩みなどをジャッジメントなしで受け入れられる場所としてありがたかったです。特にうれしかったのが、「アリーナ」という、ブレネーの本に出てくるキーワードが自然にみんなのなかで使われるようになったこと。これは、セオドア・ルーズベルトが「アリーナに立つ人」というスピーチで使った言葉ですが、ブレネーの本にも、何かに挑戦しようとしている人はみんな「アリーナに立つ人」であるという認識で、とあるメンバーの息子さんが受験をしたことも彼にとってのアリーナ。また、お仕事でイベントなどで沢山の人の前にでていく機会が増えた友人も、それは彼女のアリーナだね、とみんなで応援しあえたのが本当にうれしかったです。 CW_ArenaQuote (1)

2)価値観

さまざまなレッスンのなかで、心に残ったものの一つが、最初のほうにやったエクササイズで、自分にとって大切な価値観を見極めたあと、それをランタンの火にたとえるというものがありました。私にとって大切な価値は「優しさ」と「勇気」だったのですが、そういった大切な価値(ランタンの中の火)を守ってくれる物が、家族や友人、という例えはとても勉強になりました。人生の中で、自分にとって大切な価値が何かわかっていないと、ランタンを持っていないのと同じで、暗闇の中で迷ってしまいます。そして、ランタンを持っていたとしても、時々、持ち歩くことを忘れて、どこかに置いたまま価値からはなれてた行動を取ってしまうことも(私の場合、イラついて意地悪なことを言ったり、何かが怖くて前に進めなかったり)あるのです。だから自分のランタンの中の炎を大切にしよう、というレッスンで、これは視覚に訴えるためとても参考になりました。

3)人は常に最善を尽くしているということ

これは、ブレネーの最新作、Rising Strongに書かれてることで、こちらの投稿に少し書きましたが、これが、私にとってこのコースで一番の勉強になりました。本の日本語訳がまだでていないので読んでいない方に説明をするのが難しいのですが、ひとつ質問させて下さい。 「あなたは、一般的に言って、世の中の人達はできる限りの最善を尽くしていると思いますか?」 私は先日41になりましたが、Rising Strongを読むまで、この質問の答えはノーだと思っていました。みんなが最善を尽くしているわけない。サボったりズルしている人ばかりじゃないか、と。この本のこの章を読んだ時、涙が止まりませんでした。 ブレネーもそうだったと書いていますが、この質問にノーと答える人のほとんどが、完璧主義に陥っていると言います。そして、「心からの生き方」を出来ている人は、みんなこの質問に「イエス」と答えていたそうです。 ブレネーのご主人のスティーブさんにこの質問をしたとき、彼は長いこと考えたあとこういったそうです。「本当かどうかわからないけど、僕は世の中の人達はできるかぎりのことをしていると信じたいよ。そして、そう思う方が僕も幸せになれると思う。」これはブログに書くだけでは足りない、もっとディープな会話が必要なトピックだと思います。でもこのことを学べて良かった。

4)常に練習であるということ

これは宗教などにも通じてくるのかも知れませんが、これだけ5ヶ月がんばって様々なことを学んでも、所詮は人です。完璧ではないのだから、時には学んだことを忘れて価値と離れた行動を取ってしまうことがあります。このコースで嬉しかったのは、ブレネーが「時々道を外すのは当たり前」と言ってくれたこと。毎週のレッスンにも関わらず、間違いを犯してしまった場合、ブレネーは「間違いに気がつけたことを祝いなさい」と言ってくれました。気がついただけでも進歩だと。「心からの生き方」って、コースを取ったからといってすぐにそういう生き方が出来るわけじゃないんですよね。もうこれは一生かけて学んでいくということです。 コースが終わってしまって、まるで卒業式のような、少し寂しい気分になってしまいましたが、寂しくなる暇もなく、短めのコースが2つ発表されました。

Self-Compassion with Kristin Neff & Brené Brown

Selfcompassion_800x800_thumnail4 ひとつめは、Self-Compassion、自分に対していかに愛情をもって接するかを学ぶワークショップです。ブレネーは常に「愛する人や家族に話しかけるように、自分に話しかけなさい」と説いていますが、これのいかに難しいことか。(このことについてはnoteでこちらに書いています。)特に日本人は謙遜が美徳とされているので、つい自分を卑下してしまうことも多いと思います。自分に優しくなるセルフコンパッションの専門家、Kristin Neffさんとブレネーの共同コースです。 4つのコースで形成されていて、2016年5月16日開始。自分のペースで進めます。費用は40ドル。

The Gifts of Imperfect Parenting 

paper_straws-2500x1667-350dpi こちらは「心からの子育て」を学ぶコース。子供達が、自分の価値を充分理解して育ってくれるにはどうすればいいか、を学ぶコースです。完璧主義でなく、「私は不完全でもろくて、時には怖いこともあるけれど、それでも私は愛と信頼を得るだけの価値がある人間なんだ」と信じることができる子供を育てられるとしたら?子供の年齢は4歳でも14歳でも44歳でも関係ありません、子育てって一生もののコミットメントですから。 6つのコースで形成されていて2016年9月26日開始。費用は75ドル。 5月31日までに申し込めば、30%オフになるコードをもらったので、申し込む方はぜひご連絡下さいね。

信頼とは、ビー玉のようなもの

Photo credit: Steven Depolo

前回のブログではVulnerabilityとは単に「弱さ」のことなのか?について説明しました。これらは「ヴァルネラビリティに関する誤解」としてブレネー・ブラウンの著書 Daring Greatly(邦題「本当の勇気は「弱さ」を認めること」)そして彼女のブログなどでも詳しく説明されていることです。

今日はさらに、ヴァルネラビリティに関する別の誤解について書いてみたいと思います。

誤解:「ヴァルネラビリティとは全てを洗いざらいさらけ出すことだ」

英語にOvershareという単語があります。シェアしすぎること、プライベートな内容を他人に暴露することを指します。例えば、パーティで会ったばかりの人に、夫との結婚生活が上手くいっていないと漏らす人や、SNS上で自分のかかえる悩みや苦悩などを常に投稿し続ける人など。親しくないのに、個人的なことをいろいろ話されても、受け取る側としてはどう対応していいのかわからないことがありますよね。

ブレネーは、このようなOvershareやなんでもすべてさらけ出すことはヴァルネラビリティではない、と言っています。

なぜなら、ヴァルネラビリティは、信頼とBoundary(境界)なしには成り立たないからです

ヴァルネラビリティとは、自分の信用を勝ち得た人にだけに自分の感情や経験を打ち明けることです。出会ったばかりの人に「私の一番暗い秘密、聞いて下さい」などと歩み寄るのは、「心を開いている」のではなく、ヴァルネラビリティを利用して単にかまってもらいたいだけであり、ワイドショーの見出しのようなものですよね。

この誤解について話すと、必ず出てくる質問があるとブレネーは言います。

「じゃあ、どうやれば誰を信用すれば良いとわかるんですか」

「打ち明けても笑われないという確証がないと、心を開けません」

「どうやって信頼を築くのですか」

この質問の難しい点は、「ニワトリと卵」のように、どちらが先なのか見極めがつかないことです。これをやれば絶対に確実、というテストやスコアもありません。しかし、私がブレネーの紹介してくれた逸話のなかでも最も好きな「ビー玉のびん」のお話が良い例になると思うので、紹介します。

ブレネーの娘のエレンが3年生の時、こんなことがありました。

エレンはある日、自分に起こった、ちょっと恥ずかしいけど、面白い出来事を、何人かの友達に内緒で話しました。しかし昼休みにはその話はクラス中に広まっていて、みんながエレンのことを笑っていたというのです。クラスの騒ぎようがひどく、女の子達はいつまでも笑っていたので、ついには先生が「ビー玉のびん」からビー玉をいくつか取り出すことになってしまいました。

このクラスには、子供達がビー玉のびん、と呼んでいたガラスの容器が置いてあり、その横にはビー玉の入った袋がありました。学年が始まったときに、先生は、クラスのみんなが良いことをした時、態度が良かったときにビー玉をいくつかびんの中に入れると決め、騒いでいたり、仲良く出来なかった時には、ビー玉をびんから取り出すというルールを紹介しました。びんがビー玉でいっぱいになったら、クラスでパーティをするという約束になっていました。

エレンが、数人の仲の良い友達に打ち明けたはずの秘密が、クラス中に広まっていて、みんながエレンをからかっていたため、先生はビー玉をいくつか取り出さなくてはなりませんでした。

エレンは帰宅すると泣きながらこの話をブレネーにしました。ブレネーの最初のリアクションは「なんてひどい!もう誰にも秘密を打ち明けちゃダメよ」と言いたかった、と書いていますが(親ならきっとみんなそう思いますよね)、思い直して、どうやって信頼について話せるかを考えてみたそうです。

ブレネーは、友情は「ビー玉のびん」のようなものだとエレンに話しました。誰かが自分のことをかばってくれたり、優しくしてくれた時、それは自分の心の中のびんにビー玉を入れるようなものだと言います。逆に、誰かが意地悪なとき、仲間に入れてくれなかった時、秘密を他人に漏らしてしまったとき、自分の心のなかでビー玉をびんから取り出すことになります。

エレンに意味がわかるかと尋ねると、「私にもビー玉のびんの友達いるよ!」とエレンは嬉しそうに言いました。原文ではMarble Jar Friendsと言っています。良い言葉ですよね。エレンにとってのMarble Jar friendsは、「秘密を他人に漏らさないで、自分にも秘密をうちあけてくれる」友達のことだと言います。

ブレネーとエレンは「Marble Jar friendsはどんな時にビー玉をゲットするのか」についても話します。人によって答えは違うと思うのですが、エレンの場合は「秘密を守る人」「秘密を打ち明けてくれる人」「誕生日を覚えていてくれる人」「おじいちゃんとおばあちゃんのことを知っている人」「楽しいことに誘ってくれる人」「悲しくしていたら理由を聞いてくれる人」「病気で学校を休んだらお母さんを通じて電話してくれる人」なのだそうです。ブレネーも、ほぼ同じだと言います。

信頼というものは、ビー玉ひとつひとつの積み重ねでできていくのですね。

先ほどの「ニワトリと卵」の問題は、人との関係を築いていく際に出てきます。エレンの先生は「あなたたちが良いクラスになるかどうかわからないから、びんは買わない」とは言いませんでした。クラスの最初の日にびんはすでにそこにあったのです。生徒達も「先生がほんとうにビー玉をいれてくれるかわからないから、仲良くなんてしたくない」とは言わなかったのですね。みんなで協力して、先生がビー玉を入れてくれるよう、良いクラスになるようにがんばったのです。

カップル心理学で有名なジョン・ゴットマンも似たようなことを言っています。グウィネス・パルトロウ出演の「スライディング・ドア」という映画にちなんで、彼はこれを「スライディング・ドア・モーメント」と呼んでいます。

ある日、彼はやっと辿り着いた結末を読むことを楽しみにしていたミステリー小説を持って寝室に向かうとき、悲しそうな顔で髪をとく妻の姿が目に入りました。あなたならどうしますか?

「本の結末が知りたいし、妻の話を聞いていたら長くなるから、気がつかないフリをしよう」と思うか、それとも本を置いて「どうしてそんな悲しい顔をしているんだい?」と妻に声をかけるか。信頼とはこのような細かい決断の積み重ねで、どちらを取ることが多いかによって、人間関係の信頼が築かれたり、逆に崩壊したりするのですね。

ブレネーは、時には、ビー玉のびんを投げつけて全部ばらまいてやりたい、と思うほどの裏切りを経験することもあるだろうと指摘しています。浮気、不倫、嘘などが、そのような信頼を失う原因と言えますが、ブレネーは、それよりもっと重大で危険なのが、ゴットマン氏が指摘するようなちいさな信頼の積み重ねが無い状態、つまり、関わることさえ拒否している状態だと言います。

パートナーに「最近あまり興味がないのね」などと言うと、「毎日仕事に行って、子供達を野球の練習に連れて行って、寝かしつけまでやってるのに、これ以上何が必要なんだ?」などという答えが帰ってくる場合がそうです。仕事に関して言えば、良く出来ているのか、間違っているのか、フィードバックさえもらえない状況。子育てに関しては、その日どんなことをして誰と遊んだか、楽しかったことは何か、逆に怖かったこと、嫌だったことについて積極的に質問することとが無いため、子供達が「お父さんとお母さんは自分には興味ないんだ」と思ってしまうような場合。関わろうとしない状況が続いた結果、先に述べたような嘘や浮気などの裏切りにつながっていくケースが多いとのことです。

これまでの研究の結果、ブレネーがたどりついた答えは:

信頼とは、心を開くことで形成され、時間、手間、そして充分な関わりが必要なものである。信頼とは大がかりなものではなく、ビー玉をひとつずつ集めていくようなものである。

ということです。

ブレネー・ブラウンの教えに興味がある方はFacebookのグループも覗いてみて下さい。参加されたら自己紹介をお願いします。

(2021年2月追記)2021年度のブレネー・ブラウンブッククラブを4月から開始します。興味のある方は、こちらからお申し込み下さい

ヴァルネラビリティとは「弱さ」?

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ブレネー・ブラウンの本、そして彼女の活動はすべてVulnerabiity(ヴァルネラビリティ)がテーマです。

ヴァルネラビリティは、これまで日本語ではコンピュータや情報セキュリティの世界で「脆弱性」といった意味で使われていました。

脆弱性とは、コンピュータやネットワークのセキュリティが第三者によるシステムへの侵入や乗っ取りといった不正行為が行われる危険のあるシステムの欠陥や問題点のことで、「攻撃されやすいこと」という意味です。

これを、私達人間の心という文脈で見ていくと、ヴァルネラビリティはどう訳されるでしょうか。直訳すると「脆さ、弱み」となると思います。それではヴァルネラビリティとは、弱さのこと?

ブレネーの二冊目の本、Daring Greatly (日本語版は「本当の勇気は「弱さ」を認めること」−サンマーク出版)では、ブレネーはヴァルネラビリティを以下のように定義づけています。

「不確実性、リスク、生身をさらすこと」

もう少し詳しく説明しましょう。(Daring Greatlyから意訳しています。)

たとえば、愛。自分を愛してくれるという確証もなく、その安全も保証できない誰かを愛すること。死ぬまで誠実でいてくれるのか、または明日突然自分を裏切るかもわからない人を愛することーそれはまさにヴァルネラビリティです。愛というのは不確かで、恐ろしく危険なものです。自分がいつ傷つくかも全くわかりません。でも、愛のない人生なんて考えられないですよね。

受け入れてもらえるか、感謝してもらえるかもわからないままに自分の創ったアート、書いたもの、撮った写真、アイデアを世間に公表することーこれもヴァルネラビリティです。

一瞬のことだとわかっていても喜びに浸ること、それこそヴァルネラビリティのひとつのかたちです。

こうして見ていくと、ヴァルネラビリティは本当に「弱さ」といえるでしょうか。

上の例を見ていくと、ヴァルネラビリティは「感じること」とも言えるかも知れません。哀しみや、心の傷、しいては大きな愛や喜びもヴァルネラビリティと言えると思いませんか。それでは、感情をしっかり感じることは、「弱さ」なのでしょうか?

ブレネーは、ヴァルネラビリティを弱さだと決めつけてしまうのは、私達が感情をしっかり感じることを、失敗である、そしてマイナス要因であると勘違いしているからだと言います。

ここで、ブレネーが「あなたにとってヴァルネラビリティとはなんですか?」と聞いた際の答えを紹介します。

—助けを求めること

—ノーということ

—自分のビジネスを立ち上げること

—パートナーをセックスに誘う時

—ガンにおかされた妻と遺言状の準備をすること

—子供を亡くした友人に電話をすること

—離婚後初めてのデート

—仕事をクビになること

—恋に落ちること

—彼氏を初めて親に紹介する時

—怖がっていると認めること

—人のうわさ話をしている人を止めること

—許しを乞うとき

—新しいことを始める時

−3回の流産の後、また妊娠すること

—公共の場でエクササイズする時

ー自分の商品を世間にむけて発表して、何も反応がない時

ーCEOに来月の社員の給料が払えないと告げる時

ー息子がオーケストラに選ばれたがっているのに、恐らく落ちるだろうとわかっている時

ー信仰すること

ー責任をもつこと

上の例を読んでみて、これらが「弱さ」だと思いますか?辛い思いをしている人を慰めようとすることが弱さでしょうか?責任をもつことが弱いことだと思いますか?

答えはノーです。

ヴァルネラビリティには真実の響きがあり、勇気を感じさせます。

ヴァルネラビリティを経験しているとき、私達は先が一体どうなるかわからずに不安で、傷つく可能性があるということです。でもこのようなリスクを冒してでも自分達の心を開いて真の自分をさらすとき、唯一確実なのは、それは弱さではないということ。

この、ヴァルネラビリティ=「弱さ」ではないということが、ブレネーが説く「ヴァルネラビリティに関する誤解」の一つです。それでは次回は、二つめの誤解についてお話したいと思います。

本当の勇気は「弱さ」を認めること

エンパシーとシンパシーの違いとは

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ブレネー・ブラウンと学ぶLiving Brave Semester、3週目が終わりました。

ここで1週間のお休みがあるので、少しゆっくりめにビデオを観たり、課題に取りかかったりしています。この1週間で、遅れを取り戻そうとしている人も多いと思います。

日本からの参加者で集まっているFacebookのグループでも、なかなか意義のある深い話し合いができていて、とても嬉しく思っています。コースに参加していなくても、ブレネー・ブラウンの提唱する「心からの生き方」に共感する人なら誰でも参加できますので、お気軽に参加表明して下さい。参加されたらひとこと自己紹介をして頂けると嬉しいです。

3週目のテーマは「Empathy」、また誰にvulnerableな心の内を打ち明けるのが良いのか、そして自己に対する思いやりの重要さについても学びました。

何か悲しいこと、辛いことがあったときに勇気を出して打ち明けたときに、相手の反応が「ふーん、そんなのたいしたこと無いじゃん、私の方がもっと大変なんだから!」と言われたら、誰だって、もうvulnerableになって打ち明け話なんて二度とするものか、と思ってしまいますよね。または「えー、それ超かわいそう。なんか惨めじゃない?」なんて反応をされたらただでさえ辛い思いをしているのに、さらにshame(恥)のスパイラルに陥ってしまいますよね。

3週目のレッスンでは、そういうことが起こらないように、どうやって打ち明ける相手を見極めるか、そして、自分が打ち明けられた立場の時にいかにエンパシーを持って接するかについて学びました。

エンパシーとは、共感する力。英語でエンパシー、シンパシーとよく言いますが、この二つの単語は同じ意味なのか?というテーマでブレネーが説明してくれたのですが、こちらの可愛らしいアニメーションのビデオがブレネー自身の声で、とてもよくわかる説明になっているのでご紹介します。

The Power of Empathy from Gobblynne on Vimeo.

このビデオによると、エンパシー(共感)とは、実際に、打ち明けている人がいる暗い場所まで降りていって、「それは辛いね。私もそれがどういう気持ちなのかよくわかるよ」と言うこと。シンパシー(同情)は、その人と同じレベルに降りていかず、上から目線で「えー、可哀相」と、あくまで自分には関係ないというスタンスを取っていることを指します。

このビデオのクマのように、自分がいる暗い場所まで降りてきてくれる人こそ、自分の辛い感情を打ち明けるのに適した人であると思いますし、自分も、愛する家族や友人にはこのように接しなければいけないな、ととても良いリマインダになりました。