人の幸せを喜べるか – Day 64

今日は他人の成功を喜ぶことについて書いてみようと思った。嫉妬というのとは少し違う。私はもともと嫉妬深いタイプではないが、若いころ、この世で一番嫌な感情は、という質問で、嫉妬心と答えた記憶がある。40過ぎた今ではそれはもう私の中の真実ではないので、若い頃なぜそう思っていたのか、思い出せない。その根拠はなんなのか、若い頃の自分に聞いてみたい気がする。

それでは今同じ質問をされたら、最も嫌な感情は、今ならviolatedというだろう。訳が難しいことばだけど、犯される、侵害されるといった意味になる。

数年前、車のドアを開けて運転席に座ったら、シートの上に車のダッシュボードにある小銭入れ用のちいさな引き出し(のようなもの)が置いてあって、びっくりしたことがある。どうやら、車の鍵を閉め忘れていたらしく、誰かが車の中の小銭を盗んでいき、引き出し部分が取れてしまったのをシートの上に置きっ放しにされていたのだ。

車の鍵が開いていたのは不幸中の幸いで、窓も割られたりしていなかったし、貴重品も置いてなかったので取られたのは小銭だけだったが、あのsense of violationというのはなかなか忘れ去ることができない。

もちろん、知り合いの中には実際に泥棒や強盗の被害に会った人もいるし、さらに酷い、身体的被害を被った人もいる。一生心に残る傷だと思う。

嫉妬心や人をうらやましいと思うことに話を戻すと、私は普段は他人の成功を喜べるタイプだと思うけど、もしそれが自分が本当に欲しくてたまらないものだったらどうだろう。例えば、自分が歌手になりたかったとして、誰かが弁護士になれたことは心から喜べるかもしれないが、誰かがレコード会社と契約したら、同じくらい喜べるのかは疑問だと思う。

自分でも、他人の成功や幸せには素直に喜べる人でいたいと思っているけど、ひたすら努力のしづめで結果がでない時、他人の為にだけ何かをしている気がしているとき、周りの人に棚ぼた的なラッキーなことが起こった時には、なかなか素直に喜べる余裕がない気がする。easy come easy goという言葉があるので、あまり真剣に取らないようにはしているけれど。