アリーナに立つ人

先日、このようなnoteを読んで、とても共感したのでシェアします。

創作に携わる、すべての人にこれくらいのメンタリティでいてほしい

遠山怜さんのこのnoteは、私がこれまでにブログやnoteでシェアしてきた、私の尊敬する人達の知恵と重なることが多く、またポッドキャスト「はみだし系ライフの歩き方」では常に「俺最高」のマインドセットを持とう、と言っていること、そしてさらに前回のポッドキャスト18回では「発信しないROM専日本人」について話したので、あまりのタイミングのよさに「そう、そうだよ!」と激しく頷いてしまいました。

ブレネー・ブラウンの様々な教えはこのブログでもなんども紹介していますが(「ヴァルネラビリティとは弱さ?」 「恥について」)、彼女の2冊目の本、Daring Greatly(邦訳:「本当の勇気は、『弱さ』を認めること」)に出てくる、セオドア・ルーズベルトのスピーチにでてくる「アリーナに立つ人(The man in the arena)」をご存じですか。

以下はTechCrunchの記事を参考にして、少し訳に手を入れました。

重要なのは批評家ではない。ものごとを成し遂げるのに人がどこでつまずいたか、どうすればもっとうまくできたか、そういう粗探しはどうでもよい。名誉はすべて、実際にアリーナに立つ人のものだ。その顔は汗と埃、血にまみれている。勇敢に戦い、失敗し、何度も何度もあと一歩で届かないことの繰り返しだ。そんな人の手に名誉はある。なぜなら失敗と弱点のないところに努力はないからだ。常に完璧を目指して現場で戦う人、偉大な熱狂を知る人、偉大な献身を知る人、価値ある志のためなら自分の身を粉にして厭わない人…結局最後に勝利の高みを極めるのは彼らなのだ。最悪、失敗に終わったとしても、少なくとも全力で挑戦しながらの敗北である。彼らの魂が眠る場所は、勝利も敗北も知らない冷たく臆病な魂と決して同じにはならない。

「他人のことにとやかく言う」人が多い日本では、行動を起こす、自分の意見を言う、何かを創作して発表することに、とても勇気が要りますし、それは同時にリスクを伴うことでもあります。

先日ポッドキャスト18回で紹介したNewsweekの記事で日本人は「ROM専」の人が海外諸国に比べて多いということが指摘されていましたが、「プロでもないのに」「何様のつもり?」などというグレムリンの声、(往々にしてこれらの声は実際に誰かから発せられたものより、自分の頭の中で反芻していることも多いのですが)、また炎上を恐れるあまり発言しない人も多いのでは、と感じました。

ルーズベルトのスピーチによると、重要なのは、そのような「何様のつもり?」と批評してくる人達ではなく、実際に顔を泥や埃や血だらけにしても、実際にアリーナに立っている人・・・・・・・・・・・・・・です。

ブレネー・ブラウンは、この「アリーナ(競技場)」の例をもとにして、「批評」してくる人達はcheap seatsに座っている人達、実際に競技場に立つ勇気のない人達で、勇気を振り絞って実際にアリーナに立っている人に比べたら、気にする価値もない人達だと言っています。リスクをおかす勇気がなく、競技場のシート上から批判だけをしてくる人達には、実際にアリーナに出ていく勇気のある人に文句を付ける権利はないのです。

だから私は常にアリーナに立つ人を心から応援します。ここでいう「アリーナ」とは、スポーツに関連したことだけではありません。

志望校を受験すること。

オーディションに挑むこと。

ブログを書いて発表すること。

SNSに投稿すること。

自分自身の意見を発表すること。

人前でパフォーマンスすること。

誰かに告白/プロポーズすること

辞表を出すこと。

新しい仕事に応募すること。

アリーナに出ていくと、とっても脆く感じます。誰に何と言われるかわからないし、笑われるかもしれない。このような感情を、ヴァルネラビリティと言います。日本語に訳すのが難しい言葉ですが、「脆く感じること」と言えるでしょうか。

ヴァルネラビリティに関しては過去に詳しく書いているので参考にしていただきたいのですが、ヴァルネラビリティの定義は簡単にいうと、「不確実性、リスク、生身の自分をさらすこと」。

どうなるか先が見えない不確実性、笑われたり非難されたりするかもしれないリスク、そして生身の自分をさらすこと。

ヴァルネラビリティを感じる行動をそれでもあえて行うこと=アリーナに出て行くことなのです。

ヴァルネラビリティは、一般に「他人の中に最初に探すものの、自分の中では最後まで誰にも見つけて欲しくないもの」と言われます。

他人の弱さを見つけても何とも思わないし、逆にエンパシーを感じたり、勇気のある人と思うことはあっても、自分の中にあるヴァルネラビリティは絶対に誰にも見つけて欲しくない、というのがヴァルネラビリティのパラドックスです。

アリーナに出ていく人達は、そんなヴァルネラビリティにもかかわらず、砂と埃にまみれた広場に足を踏み出します。

覚えておいてください。外野から野次を飛ばしてくる批評家に耳を傾けてはいけません。批評家は、アリーナにでる勇気も無いちっぽけな人達です。私は、「俺最高」のメンタリティで、アリーナに出ていく人を、ずっと応援しつづけます。

ヴァルネラビリティとは「弱さ」?

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ブレネー・ブラウンの本、そして彼女の活動はすべてVulnerabiity(ヴァルネラビリティ)がテーマです。

ヴァルネラビリティは、これまで日本語ではコンピュータや情報セキュリティの世界で「脆弱性」といった意味で使われていました。

脆弱性とは、コンピュータやネットワークのセキュリティが第三者によるシステムへの侵入や乗っ取りといった不正行為が行われる危険のあるシステムの欠陥や問題点のことで、「攻撃されやすいこと」という意味です。

これを、私達人間の心という文脈で見ていくと、ヴァルネラビリティはどう訳されるでしょうか。直訳すると「脆さ、弱み」となると思います。それではヴァルネラビリティとは、弱さのこと?

ブレネーの二冊目の本、Daring Greatly (日本語版は「本当の勇気は「弱さ」を認めること」−サンマーク出版)では、ブレネーはヴァルネラビリティを以下のように定義づけています。

「不確実性、リスク、生身をさらすこと」

もう少し詳しく説明しましょう。(Daring Greatlyから意訳しています。)

たとえば、愛。自分を愛してくれるという確証もなく、その安全も保証できない誰かを愛すること。死ぬまで誠実でいてくれるのか、または明日突然自分を裏切るかもわからない人を愛することーそれはまさにヴァルネラビリティです。愛というのは不確かで、恐ろしく危険なものです。自分がいつ傷つくかも全くわかりません。でも、愛のない人生なんて考えられないですよね。

受け入れてもらえるか、感謝してもらえるかもわからないままに自分の創ったアート、書いたもの、撮った写真、アイデアを世間に公表することーこれもヴァルネラビリティです。

一瞬のことだとわかっていても喜びに浸ること、それこそヴァルネラビリティのひとつのかたちです。

こうして見ていくと、ヴァルネラビリティは本当に「弱さ」といえるでしょうか。

上の例を見ていくと、ヴァルネラビリティは「感じること」とも言えるかも知れません。哀しみや、心の傷、しいては大きな愛や喜びもヴァルネラビリティと言えると思いませんか。それでは、感情をしっかり感じることは、「弱さ」なのでしょうか?

ブレネーは、ヴァルネラビリティを弱さだと決めつけてしまうのは、私達が感情をしっかり感じることを、失敗である、そしてマイナス要因であると勘違いしているからだと言います。

ここで、ブレネーが「あなたにとってヴァルネラビリティとはなんですか?」と聞いた際の答えを紹介します。

—助けを求めること

—ノーということ

—自分のビジネスを立ち上げること

—パートナーをセックスに誘う時

—ガンにおかされた妻と遺言状の準備をすること

—子供を亡くした友人に電話をすること

—離婚後初めてのデート

—仕事をクビになること

—恋に落ちること

—彼氏を初めて親に紹介する時

—怖がっていると認めること

—人のうわさ話をしている人を止めること

—許しを乞うとき

—新しいことを始める時

−3回の流産の後、また妊娠すること

—公共の場でエクササイズする時

ー自分の商品を世間にむけて発表して、何も反応がない時

ーCEOに来月の社員の給料が払えないと告げる時

ー息子がオーケストラに選ばれたがっているのに、恐らく落ちるだろうとわかっている時

ー信仰すること

ー責任をもつこと

上の例を読んでみて、これらが「弱さ」だと思いますか?辛い思いをしている人を慰めようとすることが弱さでしょうか?責任をもつことが弱いことだと思いますか?

答えはノーです。

ヴァルネラビリティには真実の響きがあり、勇気を感じさせます。

ヴァルネラビリティを経験しているとき、私達は先が一体どうなるかわからずに不安で、傷つく可能性があるということです。でもこのようなリスクを冒してでも自分達の心を開いて真の自分をさらすとき、唯一確実なのは、それは弱さではないということ。

この、ヴァルネラビリティ=「弱さ」ではないということが、ブレネーが説く「ヴァルネラビリティに関する誤解」の一つです。それでは次回は、二つめの誤解についてお話したいと思います。

本当の勇気は「弱さ」を認めること