若い友達が、仕事を辞めて、母親の母国に行って数年過ごすことになった。言葉はこれまでけっこう真面目に勉強してきてたそうだけど、現地に行ってもっと勉強し、まだご存命のおばあちゃんと話ができるようになりたいのだそうだ。良い話だと思う。
私は母国語の日本語以外にも英語が話せることで、オットの側の家族とも話ができるのは、とてもラッキーだと思う。
移民が多いカナダだと、親のどちらか、または両方がカナダじゃない方の国から来ている場合も多く、英語またはフランス語以外の言葉を話す家族というのが親戚にいることが多い。そういうとき、そのもうひとつの言語を話せるか話せないかというのは大きいと思う。
数ヶ月前、ポッドキャストの収録でカナダの先住民のアーティストをインタビューする機会があった。彼も自分の先住民の民族の言語を勉強していて、どうして今それを学ぼうとしているんですか、と聞いた際の彼の答えがとても深かったので、今でもよく覚えている。
彼は「その言語を学ぶことで、自分が完全になる気がするんです」と言っていた。
つきつめると、みんなそうなんじゃ無いかなと思う。失ってしまった言語を学ぶ人は殆どこの為に学んでいるんじゃないかという気がする。
別の友人で、同じように彼の母親の国に行って現地の言葉を学んでいた有事んがいたが、彼も、長いこと心に穴が開いているような気がしていたそうだ。でも、遠い親戚と再会して、言葉を学ぶようになって、その穴が満たすものをようやく見つけた気がする、と言っていたのが印象的だった。
誰だって、自分がどこからやって来たのか、そのルーツを知りたいのだと思う。言い古されたことかも知れないけど、真実だと思う。私の子供達も大人になったら日本に行って私のサイドの家族のことを知りたいと言い出すかもしれない。それはありきたりなことと言うよりも、ある種の通過儀礼のようなものかもしれないと思う。