信じることと確信の違い

*今年の始めに英語ブログの方に書いたものを、アップデートして日本語でまとめたものです。英語版はこちら

毎年、年の始めには3つのキーワードを設定することが習慣になっています。2017年の私の3つの言葉は「Create -創造」「Joy-喜び」そして 「Faith – 信じること」です。

Faithという英単語はよく「信仰」と訳され、もちろんそういう意味もあるのですが、私は特にひとつの宗教を信仰しているわけではないので、ここでは「人や物事を信じること」と捉えています。

前回のブログにも書きましたが、最近とてもストレスフルな時期を過ごしました。この先一体どうなってしまうんだろう?というストレスで夜も眠れない日が続きましたが、最終的には何とか解決し、とりあえず最悪の状況は避けることができました。

こういった「辛い状況」を体験するたびにいつも思い出すフレーズがあります。

“Everything will be OK in the end; if it’s not OK, it’s not the end”

「最後はぜんぶうまくいく。うまくいってないなら、まだ最後じゃない。」

何度この言葉に救われたことか。そしてこれは本当にそうだと思うんです。これまで、すべてなんとかなってきました。毎回必ず100%思い通りの結果ではなかったかもしれないけど、なんとかして乗り越えてこれました。今ここでまだ生きていることこそが「まだ最後じゃない」証拠ですよね。

それでは、「最後にはすべてうまくいく」のなら、なぜ毎回困難な状況に陥るたびにこんなに辛い思いをしなければいけないのでしょうか?

「最後にはすべてうまくいく」と頭ではわかっているのに、そう信じることがなぜこんなに難しいのか。

「最後にはすべてうまくいく」のなら、なぜ途中の辛い部分をスキップできないのでしょうか。

今年の始めに公開された、マーティン・スコセッシ監督の「Silence」という映画があります。(日本では「沈黙ーサイレンスー」として2017年1月公開)

遠藤周作の小説「沈黙」の映画化で、私は原作を読んでいないのですが、「Faith」がテーマの作品ということで、映画が公開される前からとても気になっていました。

行方不明になった宣教師を探すため17世紀の日本へ向かうポルトガルの宣教師の話で、アダム・ドライバーとアンドリュー・ガーフィールドが若い宣教師を演じています。

トーク番組「Late Show with Stephen Colbert」でアンドリュー・ガーフィールドが映画の宣伝をしているビデオを偶然観る機会がありました。ガーフィールドは1年間ジェームズ・マーティン神父について役作りをしたという話や、「サイレンス・リトリート」という無言で過ごすリトリートに参加した話をしています。よくある映画のプロモーショントークなのですが、彼が言ったひとことに思わず膝を打ってしまいました。 「Certainty about anything is the most terrifying thing to me.(対象がなんであれ、私には確信ほど恐ろしいものはない)」世の中でそんなに確信をもてるものがどこにある?「確信は戦争のもとですよ。」とのこと。

確かに、今世界中で起こっていることを考えると、あてはまることばかりで深く納得してしまいました。自分が信じるものこそが正しいのだ、という確信こそが、争いのもとになっていると思いませんか。

今までスパイダーマンの軽い俳優と思っていたアンドリュー・ガーフィールドを思わず尊敬してしまいました。

このビデオを観て以来、ずっと、色々考えさせられています。そして、このビデオを観て思い出したのが、別のTV番組、「アメリカン・クライム」

その名の通り、毎シーズン一つの犯罪にスポットをあて、犯罪者、被害者、その家族、警察など事件を取り巻く人々を描くドラマで、非常によくできたドラマです。最初のシーズンでは強盗殺人がテーマなのですが、殺された男性は軍人で、綺麗な奥さんもいてまわりからは幸せな完璧な家庭をもった人物だと思われていたのですが、事件の詳細が明らかになるにつれ、この人物は実はドラッグディーラーだったことが判明します。

この息子を亡くした母親役がフェリシティ・ハフマンで(「デスパレートな妻たち」のリネット役の人ですね。実生活ではウィリアム・H・メイシーの妻です)、自分の息子がドラッグディーラーだったことを認めない非常に頑固、かつ有色人種に対して差別的な白人女性を演じていて、演技だとわかっていても観ていてすごく不快でした。もちろん、それだけ彼女が素晴らしい女優であるということなのでしょうが。このドラマには彼女以外にも自分が正しいと信じて疑わない人達が沢山でてきて、出てくるキャラクターのだれも好きになれず、ムカムカしながらも目が離せないという不思議なドラマでした。

アンドリュー・ガーフィールドが言っていたことが、まさにこのドラマにも再現されていました。自分が正しいと信じて疑わないことほど恐ろしいものはありません。

私も以前は確信を求めていたと思いますが、今は不確定なことでもだいぶ耐えられるようになってきました。

それでは「Faith – 信じること」は?

何かを信じていれば、辛い状況を乗り越えることができるのでしょうか?

信じることと確信の違いとはなんでしょうか?

私は多くの日本人と同じように、ほぼ無宗教で生きてきましたので、これは神様を信じるか、という話ではありません。

何故信じることが大切だと感じるのか−? それは、私は時々怖くなるからです。生きていると、怖くなることって沢山ありますよね。

このトピックに関してリサーチをしていて、アンディさんという方の素敵なブログに遭遇しました。私よりもずっと深い言葉で説明されていますが、こちらも読んで納得する内容でしたので興味のある方はぜひ読んでみて下さい。彼によると、確信と信念は似たようなものではなく、実は正反対なものだというのです。(以下拙訳)

Certainty and faith are not only different things, they are mutually exclusive. If you are certain of something, you don’t need faith. To have faith is to acknowledge uncertainty, and choose to believe something regardless. In this way faith is a choice, and it can encourage engagement in the mystery of life. Certainty is a refusal to accept that an alternative can even exist. To be certain is not to make a choice, but to assume that there is no choice to be made.

確信と信念は異なるものであるうえに、相互排他的なものだ。もしあなたが何かに確信を持っているとき、あなたは何をも信じる必要がない。何かを信じるということはそこに不確定なものがあると認めることであり、それでも信じることを選ぶということを意味する。 この場合信じることはあなたが自ら選ぶことであり、人生の神秘にあえて身を任せることを意味する。確信とは代わりの存在さえも認めないということだ。確信するということは選ぶことではなく、選択する余地さえもないと決めつけることである。

つまり、何かを信じるということは「確信はないけど、それでも信じる」という行為のことで、確信とは「これしか無い、他の選択肢などあり得ない」ということですね。確かに、相互排他的なコンセプトです。

私にとって、何かを信じるということは勇気のしるしです。

生きていると怖いことばかりで、つい確信を求めてしまいますね。絶対に幸せになれる人と結婚したい、絶対に成功できる仕事につきたい、絶対に子供を良い学校にいれたい、etc, etc…

でも「信じること」は、確信はないけど、ひょっとしたら間違いをおかしてしまうかもしれないけど、それでもその一歩を踏み出すことです。

アンディさんのブログから再度引用すると:

If the chaos and unpredictability of life is a roulette wheel, faith is not about knowing whether the ball will land on black or red. And it doesn’t need to be about deluding yourself into believing you know. Faith is about walking up to the table and placing a bet. Faith is a perspective that the reward is worth the risk. And maybe faith is a belief that playing the game is more important than winning or losing.

もし人生のカオスと予測不可能なことがルーレットだとすると、信じることとは球が赤か黒のどちらに落ちるかを確信することではない。ましてや結果が分かるかのように自らを騙すことでもない。信じることとはテーブルに向かい、賭けることである。信じることとはその報酬はリスクを負うだけの価値があるという考え方のことだ。そして信じることとは、ゲームをプレイすることとのほうが勝ち負けよりも大事と信じることである。

だから私には確信よりも信じることの方が大切です。負けるかもしれないと分かっていてもそれでもテーブルに向かう勇気の方が私には大切だと感じますし、勝つか負けるか分からないからプレイしない、という人よりも、負けるかもしれないけどやってみる、という人の方を私は応援したいと思います。人生は一度しかありません。確信が持てないからプレイしないなんて、、、もったいない気がしますね。

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